
結局、仏教って何?
仏のモノサシ
~相対と絶対~
仏教はお釈迦さまが説かれた教えのことを言います。お釈迦さまは自分が辿り着いた真理を他の人間に説明することをためらったと伝えられています。人間には理解できないと思われたからです。でも、結局は修行仲間だった5人にはじめて話をされたと伝えられています。その最初に話をされたことを初転法輪と言います。
なぜ、人間には理解できないと思われたのでしょうか。そこに仏教の深さがあります。
私がはじめて仏教の本質のようなものを学んだと肌で感じたのは20才のときでした。大学での講義でした。教授が次のようなことをおっしゃいました。
人間は自分の人生を苦しいと感じている。思い通りにならないことが多いから。でも、自分が苦しんでいることを自覚することもなく、ただただ、毎日の生活に追われている。また、毎日が幸せだと感じることもなく、毎日が充実していて楽しいと思うこともなく、一生を終えていく。お釈迦さまは、これでいいのだろうかという問いを持たれた。この世に生まれた苦しみ、歳をとる苦しみ、病気になる苦しみ、死んでいかねばならない苦しみと向き合い、なぜ苦しいのか、どうすればこの苦しみを超えた人生を送れるのか、と問いつづけ、その答えに辿り着かれた。でも、初転法輪を行うまでお釈迦さまは悩まれました。その答えを人間が理解することは不可能だと思われたからです。なぜでしょうか。
なぜなら、人間は絶対の言葉を駆使していないからです。相対の言葉でしか人生を把握できないからです。体重が軽い・重い、背が高い・低い、勉強ができる・できない、がんばる・さぼるなど、相対語を使って事実を理解したり、考えを伝えたりしています。その相対語に良い・悪い、正しい・間違いなどの価値観や意味を付け加えることもしながら。そうした相対語を使っている生き方(世界)を絶対の生き方(世界)から見たときに、「あなたがたはこういう状態にあるから苦しいのですよ」と説明して理解してもらいたいのだが、絶対の世界は相対の言葉を使って説明するのは不可能ではないかと思われたのです、・・・と。
私は、ものすごく興味を持ちました。「どんな風に生きていけばいいのかを計ろうとしている私のモノサシでは、所詮苦しみを超えることはできないらしい。私には理解できないことを教えてもらえるのではないか。一度しかない人生を何か意味のある人生にできるのではないか」と。
この感覚を何かにたとえるとすれば、カーナビです。
カーナビのなかった時代、たとえば恋人2人が車で知らない遠くへ旅行に行くときは地図帳を買って持って行きました。楽しいはずの旅行が、道に迷ったり、到着時間を予想できなかったりすると、もめはじめ喧嘩になることがありました。誰が悪いわけでもありません。仕方がないことです。仕方がないこととわかっているのに、私たち人間は腹が立つことがあるものです。どうすれば腹を立てなくてすんだのかもわからないのです。腹が立った気持ちのおさめ方も下手なのです。でも、カーナビが当たり前になってからは状況が変わりました。道や到着時間で悩むことはありません。ですから、会話が楽しいのです。その旅行がとても充実するのです。そういう意味でカーナビは単なる地図帳ではないのです。自分の現在地、どっちを向いているのか、到着時間はいつごろか、自分のことではあるけれど、自分の力ではないものによって、すべてお見通しになっているのです。だから、旅行を楽しめます。
カーナビは空から見ながら私にはたらき続けるシステムです。空から見た私を教えてもらっているだけです。その恩恵を受けながら旅行ができているのです。恩恵を感じながら旅行するかどうかは私の自由ですが。お釈迦さまの教えは、絶対の世界から見た相対の世界の人間にはたらきかけています。残念ながら、人間の力では見えません。だから、お釈迦さまはどうすれば伝えられるかと悩まれました。
広報部B